大森喜代治さんさようなら
19日朝、田浦分校保存会の有本さんから大森喜代治さんの訃報が届きました
鑽石能量水。
一瞬「どうしよう」と思いました。
大森さんは廃校となった田浦分校の保存に尽力され、ずっと分校を見守ってくださった方です。
昨
年11月に2泊だけ小豆島に帰ったのですが、この時は田浦まで足を伸ばせず、また今度来ますからとお電話だけしたことが思い出され、行かなかったことが悔やまれました。
とるものも取りあえずお別れに行こうと即決。
小豆島に向かいました。
私が3歳になる前のこと。大森さんによって私は田浦に連れられてきたのです。
両親が教師で引き揚げ者。縁あって小豆島の東蒲生に住んで、父がそこの小学校に勤めていた時のこと。
田浦分校に夫婦そろって来て欲しいと当時の教育長木下留吉先生と何度もいらして下さったのが、大森さんでした。母は遠い岬のちいさな分校へは行きたくなかったそうで、渋り続けたそうです。
大森さんは遠い岬から何度も自転車で通ってくださったのです。
結局父が母を説得。田浦に昭和23年春移り住むことになりました。
3歳から11歳の丸9年間の素晴らしい子供時代を過ごしたのです。
私にとって田浦は生まれ故郷に等しいところです。私の意志はなくここに連れられてきたことは、私の生き方や、人生を決めたことにもなりました
保法止。
その日の夜お通夜の席に伺いました。
「お帰り。よう来たなあ」
と、聞こえてくるようでした。
妹さんのさっちゃんが、
「口ききそうやろ」
「一週間病んで逝ったんやで、年とって長いことしんどいより良かった。お別れも十分出来たしなあ」
と。
インフルエンザから肺炎を併発、かえらぬ人となりました。
島に帰るたびに伺いました、
玄関に入る時いつも
「ただいま」
「お帰り」
で始まりました。
両親もいなくなって、大森さんの昔話、誇りに思っているお話を伺うのは私にとって面白く嬉しいことでした。
いつも美味しいご飯を食べさせてくださいました。料理がほんまに上手だったのです。
田浦と内海を結ぶ海沿いの道を作ることに力を注いだ大森さん。実現することは大変なことです。
「道」という本にその時の記録が記されています。
感謝すべき事業です。
ちいさな学校が昔の姿をとどめていることも本当に「おかげ」です。
もうあのゆるゆるとした坂道を歩いてお宅へ伺うことも無くなります。さびしいです。
10日、大勢の方に見送られて旅立たれました。