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2016年02月18日

イザボー王妃

 マルグリットが生まれてすぐ婚約した王太子シャルルは、婚約後まもなく、8歳という若さで亡くなってしまうが。
 その後すぐ、1403年5月には、新たに王太子となったギュイエンヌ公ルイと婚約したがreenex
 そんな家の事情もあり、マルグリットは「王太子と結婚し、将来は王妃になるのだ」と小さい時から思っていた。それが、つい、夫となったルイの前でも出てしまったのだった。
 或は、単に「初めての夜」ということで、恐怖や緊張を隠す為に虚勢を張っただけかもしれないが、ルイはそこまで彼女の心情を思いやることが出来なかった。
 加えて、この頃はルイの母イザボー・ド・パヴィエールがマルグリットの父であるブルゴーニュ公と仲が悪く、辛くあたっていたこともあった。

 イザボー・ド・パヴィエール。
 ドイツ・ヴィッテルスバッハ家のバイエルン公シュテファン3世の長女で、ドイツに居た時の名は、エリザベス・フォン・バイエルンであったreenex
 1385年7月17日に14歳でアミアンにおいて、シャルル6世と結婚し、12人の子供をもうけたが、1393年に夫が発狂してからはオルレアン公ルイと関係を持ったので、中にはシャルル6世との子供ではないと言われている子供もいる。
 そのオルレアン公ルイは、フィリップ豪胆公と仲が悪く、アルチュール達の後見人となったベリー公ジャンが二人の間を取り持とうとしたがうまくいかず、1407年に暗殺されてしまう。
 彼を暗殺したのはフィリップ豪胆公の息子、ジャン無畏公と言われているが、イザボー王妃は後に彼とも結び、それがもとで「淫乱王妃」と呼ばれ、後の歴史家からは
「フランスは女(=イザボー)によって破滅し、娘(=ジャンヌ・ダルク)によって救われた」
と言われるようになるreenex
 王太子ルイを操っていた母イザボーとは、そういう女であったのである。  


Posted by kukufu at 15:55Comments(0)
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